寿製薬株式会社
数多くの薬業関連の会社が存在していた長野県。かつて長野県の薬務課の予算は、古来より豊富に自生している長野県産の薬草(キハダ:苦味健胃薬として百草丸などに使用、ロート根:健胃薬として使用、車前草(シャゼンソウ):長野県では別名「オオバコ」として鎮咳・去痰薬として使用、大黄(ダイオウ):瀉下薬として使用、など)を購買する目的で、全国で最大の規模を誇っていた。その中で、薬草の売買から薬草に含まれる有効成分を抽出する会社が現れ始めた。すなわち、キハダから塩酸ベルベリンを、ロート根からロートエキス(硫酸アトロピン)などを抽出することである。このような激しい競争下、創業者で代表取締役社長の冨山 節は、それらの多くの薬草抽出物を扱うと共に、ほとんど手が付けられておらず、単に食品加工会社から廃棄されていた「杏の種」、また当時は北アメリカからの輸入にのみ頼っていた高価な「セネガ根」の栽培に着目した。それぞれ「杏の種」は、「ひとめ10万本」と言われる、国内で最大量の杏の生産規模を誇っていた本社所在地の隣の千曲市 森地区の杏ジャム製造会社からほぼ独占的に入手し、また「セネガ根」の栽培は、気候や土壌から適していると考えられた本社所在地の長野県坂城町の山々で行った。こうして得られた坂城町産の「セナガ根」のセネガ・サポニン含量は、北アメリカからの輸入品よりも、むしろ高いと藤田 路一 教授(東京大学薬学部生薬学教室)から査読論文にて報告されることとなり、お墨付きを得ることとなる。それらの全国シェアは両剤ともに80%を越えた。
当時のロートエキス抽出機
セネガを栽培し、セネガ根からセネガシロップ(鎮咳・去痰薬)を製造しました。セネガは北アメリカ原産のヒメハギ科 多年生草木で、アメリカン・インデアンのセネカ(Seneka)族が、ガラガラヘビに咬まれたときの応急処置として、その根を使用していました。また、セネカ族はアメリカ東海岸、ニューヨーク州北西部 ロチェスター近郊の森林地帯に居住しています。その気候として、降雨は年間を通してあり、夏季は温暖で、冬季は長く寒冷かつ北アメリカで有数の降雪地帯であり、湿潤大陸性気候に属します。このようにセネカ族の居住区と長野県北部の気候には共通点があります。
第二次世界大戦末期の昭和20年4月、創業者の冨山 節(明治41年生まれ。旧制 長野中学校[現 長野県立長野高校]卒。昭和6年、明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]卒。)は、ペニシリンを製造していた「中島化学工業株式会社(長野市川中島)」の経営に代表取締役常務として参画するとともに、昭和6年創立の長野市豊野町の「合資会社・壽商会」にも50%出資し、代表社員として共同経営者のポストにあった。当時の壽商会では杏ジャム、リンゴジャム、ボイルなど地元農産物の食品加工品を製造していた。また当時の製薬業の許可は、一定規模の作業所を有することが条件であったので、豊野町に有った壽商会には食品加工用のボイラーなどの設備や敷地等、許可を受けるのに十分なだけのものがあり、冨山は壽商会の食品工場の一隅を作業所とすることで思い切って製薬業の許可申請を行った。この手続きは多大な困難を極めたが、長野県庁衛生課の赤尾文次郎氏、関末司氏らのご指導を賜り、昭和24年2月11日、ついに「壽製薬所」を創立する。当社名の「壽」もここに由来する。昭和25年になり壽商会の三人の子息達が無事戦地から復員すると同時にお互いに友好的な関係を維持しつつ独立し、長野県埴科郡坂城町に現在の「壽製薬株式会社」を発足させる。
ここで冨山は杏仁水(鎮咳剤)の製造に着眼する。杏仁水とは、この薬の原料が杏の種の杏仁であることからこの名前が付く。信州、特に千曲市の森の里は「森の杏(もりのアンズ)」として全国に知られた有名な杏の一大産地である。壽商会では杏の果実から杏ジャムを生産していたので、杏の果実から杏の種が外され、捨てられているのを見た経営者で薬剤師でもあった冨山は、廃棄物である杏の種から杏仁を搾取し、天然の杏仁水を生産しようと考えた。さらに杏の種から杏仁を搾取した後の殻は大変熱量があり暖炉に入れると普通の炭よりも火持ちがよく、販売することができた。また、杏仁水の抽出の前工程では杏仁油(当時、1升=1000円ぐらい)も産出され、鎮咳剤として利用され、チンク油(火傷治療剤)の主な原料ともなった。なお、杏仁水の最盛時の生産量は年間2万リットルで、日本の生産量の80%を生産するに至った。また、創業者と同じ明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]卒の薬剤師でもあった妻の通子は、当時を振り返り、「その多くを、ただで捨てていた杏の種を壽が大量に買い取り始めると、食品加工会社や農家の皆さん達に大変喜ばれた。その当時の杏の生産者は、昔ながらに高品質な杏の種を得ることではなく、大正・昭和初期に品種改良された美味しい杏の果肉を効率的に得ることが主な目的だった。」と後に述べている。
また、当時の杏仁水での壽製薬の高い国内シェアを取締役相談役の冨山 剛が語る。それは、「大学時代の夏休みには長野に帰省し、杏仁水を手伝いで最寄り駅まで運んでいた。やがて夏休みが終わり、東京に戻り薬学部での学生実習で杏仁水を使ったが、実は夏休み中に自分が運んだ杏仁水だった。」
杏仁水(キョウニン水:AQUA ARMENIACAE 「KOTOBUKI」)
セネガシロップ(鎮咳剤)の原料のセネガ根は、当時北アメリカからの輸入品であった。そこでコスト低減や当時奨励されていた国産化のため、当地で栽培を始めた。そこでセネガ根を栽培して、厚生省に持参したところ、物資不足の時期でもあったので、大変歓迎された。早速シロップ用の砂糖を特別配給されたものである。厚生省の紹介で、島根、鳥取、奈良、東京都などの薬務課員が、種子の分譲を求めて当社を訪れることも多かった。当時のセネガ根は、セネガ・サポニンの含有量も北アメリカ産に劣らず、長野県坂城町産の方がむしろ優れていることが、当時の藤田 路一 教授(東京大学薬学部生薬学教室)の研究で明らかになった(昭和27年、生薬学雑誌)。
ロートエキスの本格的な生産は昭和28年の高価な真空濃縮機に始まる。ロートエキスとはロート根というナス科の植物の根茎に希アルコールを加えて浸出させて製したエキスで消化液の分泌抑制・鎮痛・鎮痙薬として用いられていた。また原料のロート根は小県郡長和町、佐久平や上水内郡信濃町の農家から集荷していた。当時ロート製薬が「パンシロン」の発売を始め、昭和30年になると、「パンシロン」の主原料・ロートエキスの大部分を当社が納入した。またロートエキスの生産量では、全国の80%~90%に達した。しかし、ロートエキスの定量ではバラツキがあり、当社研究所や国立衛生試験所、長野県衛生試験所などで同一のサンプルを試験し、品質の確保に最大限努めた経緯もある。
ルチンの本格製造は昭和31年から開始された。当時、長野県化学株式会社という会社でクロロフィルを造っていた菊池氏兄弟は、もう1社、日本ルチン株式会社という会社を持ち、社名の通りにルチン(血糖降下薬)を製造していた。その日本ルチンを当社が引き継いでくれるよう、代表の菊池氏から要請されたのである。当時ルチンはヨーロッパにも輸出されており、2交代制を敷いたほどである。当時のルチンは武田薬品工業や問屋を仲介して各メーカーに出荷された。
前列)杏仁水(キュウニン水:AQUA ARMENIACAE 「KOTOBUKI」)ロートエキス(EXTRACTUM SCOPOLIAE 「KOTOBUKI」)チンク油(OLEUM ZINCI OXIDI 「KOTOBUKI」)ホミカエキス(EXTRACTI NUCIS VOMICAE 「KOTOBUKI」)
後列)セネガシロップ(SYRUPUS SENEGA 「KOTOBUKI」)ルチン散(PULVIS RUTIN 「KOTOBUKI」)塩酸ベルベリン(BERBERINE HYDROCHLORIDE 「KOTOBUKI」)
生薬の原料である薬用植物は、その年の天候や産地に左右されて品質が安定せず、市場価格の変動も激しかった。また1年分の原料を一時に購入しなければならず、資金運用の面でも負担は大きかった。さらに原料を大量購入しても、原料価格が安くなると、製品価格も安くなり、リスクも大きかった。このような背景もあり、昭和36年頃から取締役相談役の冨山 剛を中心として生薬のバルク製造と並行し、また欧米との特許制度の差を利用して化学合成品製造へ転換する。最初に取り組んだのは塩酸フェンホルミン(商品名/ジベトン)、塩酸ブホルミン(商品名/ジベトンS)であった。特に塩酸ブホルミン(商品名/ジベトンS)は国産初の腸溶性製剤であったので、日赤中央病院から製造工程の見学に訪れた。当時、腸溶剤のコーティング機械はなく、釜を独自に加工し独自のコーティング機械を作り、製剤化に成功した。また昭和42年頃からクロフィブラート(商品名/ピノグラッグ)の生産が急増した。製品は自社で販売したり、製剤バルクとして大手数社に卸した。このクロフィブラートは国産1号ということで厚生省の特別な配慮を受け、許可および薬価も短時間で収載してもらえた。このように国策の勧めた高価な輸入医薬品の国産化という中で、国内大手製薬会社から求められる原薬の純度は、あらゆる製品に於いて、「欧米からの海外輸入品と同等以上」であり、その実現に最大限の努力を務めた。この時の厳しさが今日の当社の「品質文化(Quality Culture)」の礎となっている。
さらに昭和44年6月になると当社の自社開発商品であり、後に医家向け医薬品銘柄別の国内年間売上高が第1位となる「マーズレンS配合顆粒」が発売された。
カモミールに含まれるアズレンを化学修飾することで、マーズレンS配合顆粒やマーズレン配合錠ES(胃炎・胃潰瘍・十二指腸潰瘍治療薬)並びにアズロキサ顆粒2.5%、アズロキサ錠15mg(胃潰瘍治療薬)の開発に成功しました。
郷土の生んだ山極 勝三郎 博士(1863年~1930年。初代 東京大学医学部病理学教室教授、ノルドホフ・ユング賞受賞。コールタールをウサギの耳に塗り続け、世界で初めて人口がんの発生実験に成功し、ノーベル賞委員会の公表によると、1925年、1926年、1928年、1936年の4回に亘りノーベル生理学・医学賞候補者となる。)の遺志を受け継ぎ抗がん薬も研究しています。
本社から見る千曲川
山極 勝三郎 博士は、「癌を作ることができれば、癌は治せる」という信念の下、実に300日以上の長期に及ぶ実験を行い1915年に世界で初めての人工がんの発生実験に成功している。その際、「癌出来つ 意気昂然と 二歩三歩」 曲川(出身地の千曲川にちなんで曲川という号を持っていた)の有名な句を詠んでいる。なお山極 勝三郎 博士が兎耳癌実験成功の喜びを詠んだこの句は東京大学医学部2号館本館入口の壁に大理石に刻まれて掲示されており見ることが出来る。さらに山極 勝三郎 博士は、その後もがんの免疫治療研究を続け、「世の癌をみな育たせぬみちもがな」 曲川 の句を詠んでいる。
がん征圧(寄付金つき)郵便切手がん征圧運動の一環として郵政省では、山極 勝三郎 博士の写真付きの寄付金切手を売り出した。(寄贈により所蔵)初版:昭和41年10月21日
創業者の冨山 節は明治41年、長野市川中島 酒井譲助の三男として生まれた。幼少時は母親の勧めにより景気にもさほど左右されない薬剤師の資格を取り、将来は薬局を営むことを決意する。旧制 長野中学校[現 長野県立長野高校]卒、明治薬学専門学校[現 明治薬科大学]入学。昭和5年に同級生の五十嵐 久四朗氏らと山岳部[現 明治薬科大学ワンダーフォーゲル部]を創部する。これ以来、山岳が冨山の終生の趣味となることになる。特に冨山は「牧野 富太郎(1862年~1957年。日本の植物学の父と謂われ、命名した植物は2,500以上。1957年 勲二等旭日重光章。文化勲章。)」著作で、現在も改訂を重ねている「牧野日本植物図鑑」を登山と共に携行し、図鑑と実物を比較することで、特に薬用植物の知識を深めていった。こうして卒業するまで踏破した夏の山は数多く、また当時としては珍しく冬の山スキーも楽しんだ。更に、学友と山中で目にした薬用植物の名前を言い当てるクイズも得意だった。このような山好きは70歳を越えるまで続けた山登りにも反映されている。好きな座右の銘は、「(山で)道に迷ったならば、もとの地点に戻れ」。昭和6年、明治薬学専門学校 卒業。同年、長野赤十字病院勤務。昭和10年、株式会社 和光堂に試験研究室員として入社。同級生から製薬会社創設の報がもたらされ、経営スタッフとしての参画を求められ、昭和16年、株式会社 三栄産業入社、昭和18年4月、同社 専務取締役に就任する。また株式会社 三栄産業では主にブドウ糖の注射薬や痛み止めの薬品を旧日本軍に納入した。最前線の鹿児島工場を始め各地に工場を持つが、アメリカ軍の空襲が日常的に行われ、各地の工場も戦火を被る。特に鹿児島工場への移動中に爆撃・機銃掃射を受けるも九死に一生を得る。昭和19年、体調不良のため長野に帰郷する。昭和20年4月、中島化学工業株式会社(長野市川中島)に代表取締役 常務として主にペニシリンの製造に参画するとともに、昭和6年創立の長野市豊野町の合資会社・壽商会にも50%出資し、代表社員として共同経営者のポストになる。昭和20年8月15日、第2次世界大戦終戦。昭和24年2月11日、「壽製薬所」を創立。同年、代表取締役社長。昭和26年2月、社号を「壽製薬株式会社」に改めた後は、ロートエキス、セネガシロップ、ルチン等の生薬製造の中心的役割を担った。昭和51年、昭和52年、昭和53年、昭和55年、紺綬褒章受章。昭和57年、死去。勲三等瑞宝章受章。従五位上に叙せられる。
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